黙とうを捧げる1分間、静まりかえった体育館内には蝉の声が響き、66年前の夏の日に参列者は思いを馳せました。
昭和28年7月18日、死者行方不明者計1015人、家屋全壊3209棟、家屋流出3986棟、崖崩れ4005か所など、被災者は26万2千人(これは当時の県民の1/4にあたる)にのぼるという和歌山県史上最悪の自然災害が中部で発生しました。

宮原小学校ではその慰霊祭が毎年継続して執り行われています。
有田市社協にもご案内をいただき、日ごろ福祉教育で一緒に勉強している二人のワーカーが参列しました。
当時の宮原村では129人の方が亡くなられ、内20人が小学校の児童でした。
慰霊祭では、亡くなられた児童の写真が飾られています。

毎年慰霊祭では、水害体験者が体験を語ってくれます。
今日の体験者は当時小学校4年生で、その後宮原小学校の校長として勤められたこともある方でした。

子どもたちが想像しやすいように、当時の宮原村の様子を先に教えてくれました。
学校の周りは田んぼばかりで、小川が村の中を流れ、そこで洗濯から水浴びをしていたこと。
校舎は木造で長くのびる1階建てであったこと。
田んぼでは耕運機などなく、牛や馬が使われていたこと。
テレビや町内放送もなく、今のように瞬時に情報を得ることなどできなかった時代。

そんな時代に、大雨と感じるほどは雨が降っていなかった宮原に、有田川の上流(高野山・花園村・清水町等)で降った24時間で500mm以上に及ぶ雨が影響を及ぼすとは思いもしなかったことでしょう。

あれよあれよと水が家に入り、1階から2階へ、屋根の上へと逃げた体験者の方は、隣の家がスーッと流されていくのを見たと言います。幸い助かった体験者の方は、朝から夕方まで屋根の上で過ごし、水が引き始めてホッとしてお腹がすいていることを思い出したそうです。
学校に行くと、同級生が3人亡くなっていたことが分かり、寂しくてたまらなかったと話されました。
その後もテントでの学校生活のしんどさや、地域の協力により共撰や農協などの建物を借りての授業など、昔から子どもたちの教育に地域も一緒になって考えてこられたのだと思いました。

地域の方も目測ですが70人ほど参列されていました。
帰りの際に、他地区でお世話になっている地域の方に出会いました。実は宮原の出身で、地元に残っている友人に知らせてもらい参列し、これから慰霊碑まで行くのだと教えてくれました。

毎年必ずといっていいほど、日本のどこかで自然災害が起こっています。宮原小学校では毎月避難訓練を実施しています。防災アドバイザーの方が最後におっしゃっていましたが、子どもたちが逃げようと声を上げた時、大人は大丈夫だと思っても一緒に行動してほしい、大丈夫だからと逃げなかったら次から子どもは逃げないことを選択してしまうから。

こうして、子どもたちと地域の大人が一緒になってこの日を迎えることは非常に意義のあることだと感じました。
私たちも、日ごろからできる備えを地域の皆さんや福祉関係者と考え行っていきたいと思います。